大桑の産業等

   犀川の扇状地の開拓は、水の確保の反面洪水との戦いでもあり、丘陵地の開墾も容易でなかったであろう。大桑村の農業に関する資料を歴史書から見ると次のようになっている。古くから年貢米として、また租税として苦難の道のりをへて明治維新を迎えた。ことに、犀川の「ころ」作業までもが天和2年(1682)には、年間15貫前後の銀の取立てが行われた。「ころ」作業とは、犀川上流から薪、木材を流しこの地で陸揚げし、これを金沢城下へ運搬する作業のことである。屎尿取運搬船も所持していたが、これにも銀3匁が課税されていた。
 

(1)米の取れ高等の推移

  石高 山林 原野 宅地 税率 年貢 家数
正保3年(1646) 550石

25町

8反余

11町

2反

           
寛文10年(1670) 803石           6割2分

497.8

石余

40
元禄5年(1692) 585石余                
天保5年(1834) 730石余                
江戸末期 718石           4割7分

337.4

石余

 
明治11年(1878) 958石余

66町

8反余

35町

1反余

56町

8反余

23町

3反余

4町

6反余

3割9分

373.9

石余

66

合計186町6反余

(2)大桑村の概況

明治維新後、最初の国勢調査とも言われる「皇国地誌」よると、明治9年の大桑村の概況としては次のとおりである。

ア.産物

米619.5石、モチ米127.9石、大麦58石、小麦23石、粟5石、大豆42石、そば18石、小豆7.5石、菜種58石、桑葉250貫、繭60斤、麻150斤、大根7500本、茄子170個、こうぞ皮100斤、真竹980本、小枝1500貫(藩政期まで、これらの物産がすべて課税の対象であった)

イ.堤

上川原堤、新堤、上葭島堤、村前堤、裏川原堤、不動下堤

ウ.年貢等

米373石9斗5升4合、金2円23銭7厘

地租1,366円40銭6厘

エ.戸数

本籍66戸(士族3、平民63)、家数61軒

人数男176人(士族5人、平民171人)、女200人(士族4人、平民196人)

オ.職業

 農業専従 55戸 水車業  1戸
 農業兼漁業  3戸  医業  2戸
 農業兼古道具商  1戸  日稼 5戸

カ.その他

牡馬6頭、屎尿取運搬船

 

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