桑は伐採された?

桑の木のため、日も届かず農作が豊かでなかったため斧で切り倒して燃やしたとしている。しかし古来からこのような大木は、神木として崇められていたはずである。この時代における国内の例をみても、天皇の祈願や行幸の対象になっており、これを簡単に伐採したとは考えにくい。近江国栗太郡の栗の木を伐採の際は、天皇に上奏している。また、養蚕を業とする人たちにとっては桑の木は古くから養蚕の神様としても崇められている。さらに新田開発や不作が続いたとしても簡単に伐採の理由としては考えにくい。これのことから考えられるのは、度重なる洪水により倒木したか、それに近い状態となり伐採の必要にせまられたのではないか。

伐採作業についても、農民達だけでなく別の指導者の指示により、当時としてはかなり大掛かりな農具以外の道具を使用しないことには難しい作業であろう。

伐採時に、倒れた枝先が「方位12方」で言う、末と辰巳の方角を指した村を末村と辰巳村と名づけた。今まで言われていた枝先が届いたためではないのである。

伐採した時代を考えると、桑の木のあった貝殻渕は現在の集落地に近く、集落がこの地に移住する以前とするのは妥当であろう。それは、集落がそれ以前からあれば、日陰で生活は成り立たないのである。したがって、伐採はこの地に集落を移住する南北朝前期以前であろう。

 

伐採のその後

伐採後の発掘等、桑の根の経緯について以下に記す。

安政年間(1854~1859)に貝殻渕の堤防を工事した時に、一度大木の根を掘り当てた。その木性は神代杉のようであったが実際には、桑の木の根であった。これが桑の根が最初に発見された記録である。それは余りにも巨大で掘り出しが不可能であった。さらに、明治4年(1871)の大洪水により再度根が現れた。

この話を聞いた旧加賀藩主慶寧公の命令で掘り出そうとしたが、失敗に終わった。翌年旧加賀藩士の中山守成がこれを掘り取った。その時の根の大きさは、15m×5mで巨大なものであった。

中山守成は、この一部を下本多町の邸宅に保管し、後に済光堂を興し、医術を究めるための守り神として祭った。この時の残りを石川県勧業博物館に寄付し学術の参考とした。石川県勧業博物館は、現在の成巽閣と石川県立伝統産業工芸館の地である。

明治42年(1909)、大正天皇が皇太子時代に北陸を行啓されたおりに、石川県はこの桑の根で硯箱を作り献上した。この桑の木は、古代から天皇家と縁がある。さらに、大正5年(1916)には由緒ある根の残りを保存するために、一軒社を新築し一般に初めて公開された。この場所は兼六園内にあった当事の石川県立図書館の庭であった。この時の写真が前述した桑の根に関する唯一の記録写真である。

 

当時の桑の根(大正6年)

 

里帰りした神木

昭和2年(1927)には、元の場所である大桑村へ下賜された。実に55年ぶりの里帰りであった。

昭和11年(1936)には、金沢市に編入した記念に大桑日吉神社境内に社を新築し神木として奉納し祭ったのである。

 

 

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