大桑のはじまり

  大桑の起源について、日吉神社の石碑「大桑地名誌」よれば古墳時代後期の21代天皇の雄略帝(在位 456~479)時代には、「大桑の東は医王山に接し西隣は、野々市であった」としている。このように、すでにこの時代に成立していたものと思われる。今から、1500年前以上前で仏教が伝来する前のことである。

  また、日吉神社の創建についても、白山修験道を開いた泰澄大師(682~767)が社を設けて、その祭神に山の神と言われる「大山祇神」(おおやまつみのかみ)を迎え祭ったとしている。和同開珎が鋳造されたのはこの頃である。日吉神社の祭神は1200年余にわたり守り継がれていることになる。

  泰澄大師の近辺における伝承として、湯涌温泉の開湯、波着寺(石引2)、雨宝院(野町2)、黒壁山九万坊権現(三子牛町)、夕日寺観音堂(夕日寺町)等それぞれ開山に関わる言い伝えがある。

  その後、養老2年(718)には五戸の先人たちが西隣の地を開墾したのが、後の野田村の始まりとしている。(野田村沿革史)

  さらに、平安時代前期には、65代天皇の花山帝(在位 984~986)が行幸の際、仮の御所から野々市へ参詣のために通った坂が、この地にある「御所ヶ谷」と言われており、現在もその地名が残っている。

  花山帝は、退位後も法皇として北陸地方へ、永祚元年~正暦3年(989~992)に行幸をしており、小松を中心にこの法皇の伝説が多い。大桑へもこの時期に立ち寄ったものと思われる。

  大桑の名が最初に登場する歴史書は、源  順(みなもとのしたごう)が承平5年(935)に編纂した「和名類聚抄」の中で「於保久波」と万葉仮名で記載している。これが歴史書に出てくる最古のものである。源  順はその後、天元3年(980)に能登国守として着任している。

大桑の領域

  大桑郷は、加賀国加賀郡八郷の一つで、長承2年10月1日(1133)の鳥羽院庁下文では「大桑郷の西端部が割かれ、米丸保(御供田保)が編成された」と白山宮 加賀馬場に寄せられている。犀川の谷頭付近から下流に向かって広がっており中流左岸一帯に延びていたとしている。寺町台地から野町、中村町あたりまで及 んでいたと想定される。

  ただし、犀川の河道がいろいろ変遷しており、現在の右岸に位置している部分も郷域に含まれているのである。

 

集落地の考察

  当時の集落地については、犀川の河道に大きく左右されるため、最初から現在地に住んでいたとは考えにくい。「大桑地名誌」には、「大桑は河北郡で旧加賀郡 であった」としている。これは、加賀郡を分割して河北郡の誕生を、歴史書は南北朝前期の建武4年(1337)以前としている。この時代の郡界は犀川であった。

  つまり、南北朝前期頃までは大桑の集落は犀川以北で対岸にあったことを示している。唯一、森田柿園の記した「加賀志徴」では現在の土清水辺りと伝えている。 「後に民家を犀川の南に移し」とあることからも犀川以北の地から移住したことを示している。河道に左右されない高台に住んでいたとも考えられる。しかも移住も一 回だけでないのかも知れない。それは平成13年に発掘調査した「アナグチ遺跡」、「ジョウデン遺跡」や近辺の遺跡も含め、その対象なのかも知れない。

  これらのことから、前述の「民家を犀川の南に移し」とある時期については、南北朝前期(建武4年)以降と推測される。

  参考までに、法島村も後年同様に、慶長元年(1596)の大洪水により、犀川の対岸から現在地に移住している。これは加賀藩時代のため年代も特定されている。

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