荘園のはじまり

私有地化(荘園)のはじまり

  土地は、豪族の支配から平安中期頃から律令制が崩れ地方の役人(国司、郡司、郷司)は、競って耕地の再開発を行い私有地化を図った。これが荘園化の始ま りである。平安後期、鎌倉時代には貴族や社寺の領地へと変化していくが、大桑荘での在地領主が歴史書に登場してくるのはこの頃からである。

  越前の豪族で藤原利仁(ふじわらひろひと)の末流を主張する加賀斎藤氏の領主達であり、その中でも加賀地方や口能登地方で勢力を増していた拝師郷(野々市 上林、中林、下林一帯)を拠点とする林氏と同族を主張するグループである。

  林光家の二男で三郎利光を祖として佐貫小二郎光行-弥次郎光則-又二郎信光と大桑荘の在地領主の地位を継承した。

 

大桑三郎利光の入郷

  大桑三郎利光の領主化が始まったのは、嘉応3年(1170)頃で利光が23才の時大桑氏を名乗ってからであろう。入郷に際しては寺社等の勧請を得るために現在の滋賀県大津市坂本に鎮座する、日吉大社の分社願いを請いこの地に祀り、以降日吉大社領の荘園となって行くのである。

  日吉大社は、荘園の守護神として、また武士が城や国の鎮護神として崇められていた。西本宮の祭神は、「大巳貴神」(おおなむちのかみ)別名を大国主神といい、東本宮の祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)で、いずれも地の神でこの地にそれぞれ祀った。

  この時代は、白山宮の力が強く、また世相は身の安泰を図ることに精力を費やしていた。このために領地の新田開発ごとに寄進し地位の確保を図ったのである。

  現在の城山は、自衛隊の演習場として飛行場となっている。この所で館を構えていたと伝えられている。この場所は城の役目もかね備え山頂からは、西南方向に 本拠地の野々市も望むことができる。また、東南端に鐘つき山と称する地籍もあることから、この一帯に城を配したものと考えられる。

 

林一門の衰退

  林宗家で利光の兄、林光明は、源平合戦の倶利伽羅の戦いで木曽義仲に加勢し出陣した。これが加賀武士団が世に出た最初である。寿永2年(1183)のこの合戦で兄光明は戦死したのである。

  また、宗家一門は後鳥羽上皇等の鎌倉幕府打倒のため加担し挙兵したものの鎮圧された。これが承久の乱(1221)で宗家の家綱、家朝は鎌倉で討たれ没落したのである。この後大桑三郎利光の子孫も大桑郷における勢力が次第に衰退し始めるのである。

  林一族の没落により、次に台頭するのが加賀武士団の代表格で同門の富樫一族である。

  大桑氏の撤退により、日吉大社から分社した二体の祭神をこの地に合祀し現在に至っていると考えられる。今、大桑日吉神社の三体の祭神はこのためであろう。

 

鎌倉期以降の大桑荘

  鎌倉期に入ると、従来どおりの日吉社領として実質、暦仁元年(1238)には天台宗座主領に文保年間(1317~1319)には、奈良興福寺大乗院の浄土寺門跡領にと続くのである。室町期になると応永17年(1410)~天文14年(1536)までは、京都相国寺慈寿院の甘露寺家領として受け継がれる。後期には一向一揆衆の石黒源左衛門組が在地管理を行い、さらに加賀藩時代へと続くのである。

コメントを残す