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大桑の生い立ち

 

以前から、自分の生まれ育った所で石川県金沢市大桑町の歴史について、一度は調べて見たいと思っていたが、今回の区画整理事業で発展変貌する姿や以前の面影が失われて行くのを見て、今がその機会と思い調べることにした。

どこの歴史でも、そこの神社と深い関わりがある。そこで、大桑日吉神社に建立されている石碑「大桑地名誌」を初めて読み解きすることからスタートした。一方、その内容を確認するため各種「郷土歴史書」の収集を行った。

本文取りまとめに際し、昭和11年4月日吉神社に建立された「大桑地名誌」及び各種「郷土歴史書」を基に記載した。

 

研究者

金沢市三口新町 多田 稔(昭和15年4月大桑町に生誕)

崎浦公民館ホームページ


大桑のはじまり

 

 大桑の起源について、日吉神社の石碑「大桑地名誌」よれば古墳時代後期の21代天皇の雄略帝(在位 456~479)時代には、「大桑の東は医王山に接し西隣は、野々市であった」としている。このように、すでにこの時代に成立していたものと思われる。今から、1500年前以上前で仏教が伝来する前のことである。

  また、日吉神社の創建についても、白山修験道を開いた泰澄大師(682~767)が社を設けて、その祭神に山の神と言われる「大山祇神」(おおやまつみのかみ)を迎え祭ったとしている。和同開珎が鋳造されたのはこの頃である。日吉神社の祭神は1200年余にわたり守り継がれていることになる。

泰澄大師の近辺における伝承として、湯涌温泉の開湯、波着寺(石引2)、雨宝院(野町2)、黒壁山九万坊権現(三子牛町)、夕日寺観音堂(夕日寺町)等それぞれ開山に関わる言い伝えがある。

その後、養老2年(718)には五戸の先人たちが西隣の地を開墾したのが、後の野田村の始まりとしている。(野田村沿革史)

さらに、平安時代前期には、65代天皇の花山帝(在位 984~986)が行幸の際、仮の御所から野々市へ参詣のために通った坂が、この地にある「御所ヶ谷」と言われており、現在もその地名が残っている。

花山帝は、退位後も法皇として北陸地方へ、永祚元年~正暦3年(989~992)に行幸をしており、小松を中心にこの法皇の伝説が多い。大桑へもこの時期に立ち寄ったものと思われる。

大桑の名が最初に登場する歴史書は、源  順(みなもとのしたごう)が承平5年(935)に編纂した「和名類聚抄」の中で「於保久波」と万葉仮名で記載している。これが歴史書に出てくる最古のものである。源  順はその後、天元3年(980)に能登国守として着任している。

 

大桑の領域

大桑郷は、加賀国加賀郡八郷の一つで、長承2年10月1日(1133)の鳥羽院庁下文では「大桑郷の西端部が割かれ、米丸保(御供田保)が編成された」と白山宮 加賀馬場に寄せられている。犀川の谷頭付近から下流に向かって広がっており中流左岸一帯に延びていたとしている。寺町台地から野町、中村町あたりまで及 んでいたと想定される。

ただし、犀川の河道がいろいろ変遷しており、現在の右岸に位置している部分も郷域に含まれているのである。

 

集落地の考察

当時の集落地については、犀川の河道に大きく左右されるため、最初から現在地に住んでいたとは考えにくい。「大桑地名誌」には、「大桑は河北郡で旧加賀郡 であった」としている。これは、加賀郡を分割して河北郡の誕生を、歴史書は南北朝前期の建武4年(1337)以前としている。この時代の郡界は犀川であった。

つまり、南北朝前期頃までは大桑の集落は犀川以北で対岸にあったことを示している。唯一、森田柿園の記した「加賀志徴」では現在の土清水辺りと伝えている。 「後に民家を犀川の南に移し」とあることからも犀川以北の地から移住したことを示している。河道に左右されない高台に住んでいたとも考えられる。しかも移住も一 回だけでないのかも知れない。それは平成13年に発掘調査した「アナグチ遺跡」、「ジョウデン遺跡」や近辺の遺跡も含め、その対象なのかも知れない。

これらのことから、前述の「民家を犀川の南に移し」とある時期については、南北朝前期(建武4年)以降と推測される。

参考までに、法島村も後年同様に、慶長元年(1596)の大洪水により、犀川の対岸から現在地に移住している。これは加賀藩時代のため年代も特定されている。

 


 

私有地化(荘園)のはじまり

 

土地は、豪族の支配から平安中期頃から律令制が崩れ地方の役人(国司、郡司、郷司)は、競って耕地の再開発を行い私有地化を図った。これが荘園化の始ま りである。平安後期、鎌倉時代には貴族や社寺の領地へと変化していくが、大桑荘での在地領主が歴史書に登場してくるのはこの頃からである。

越前の豪族で藤原利仁(ふじわらひろひと)の末流を主張する加賀斎藤氏の領主達であり、その中でも加賀地方や口能登地方で勢力を増していた拝師郷(野々市 上林、中林、下林一帯)を拠点とする林氏と同族を主張するグループである。

林光家の二男で三郎利光を祖として佐貫小二郎光行-弥次郎光則-又二郎信光と大桑荘の在地領主の地位を継承した。

 

大桑三郎利光の入郷

大桑三郎利光の領主化が始まったのは、嘉応3年(1170)頃で利光が23才の時大桑氏を名乗ってからであろう。入郷に際しては寺社等の勧請を得るために現在の滋賀県大津市坂本に鎮座する、日吉大社の分社願いを請いこの地に祀り、以降日吉大社領の荘園となって行くのである。

日吉大社は、荘園の守護神として、また武士が城や国の鎮護神として崇められていた。西本宮の祭神は、「大巳貴神」(おおなむちのかみ)別名を大国主神といい、東本宮の祭神は、大山咋神(おおやまくいのかみ)で、いずれも地の神でこの地にそれぞれ祀った。

この時代は、白山宮の力が強く、また世相は身の安泰を図ることに精力を費やしていた。このために領地の新田開発ごとに寄進し地位の確保を図ったのである。

現在の城山は、自衛隊の演習場として飛行場となっている。この所で館を構えていたと伝えられている。この場所は城の役目もかね備え山頂からは、西南方向に 本拠地の野々市も望むことができる。また、東南端に鐘つき山と称する地籍もあることから、この一帯に城を配したものと考えられる。

 

林一門の衰退

林宗家で利光の兄、林光明は、源平合戦の倶利伽羅の戦いで木曽義仲に加勢し出陣した。これが加賀武士団が世に出た最初である。寿永2年(1183)のこの合戦で兄光明は戦死したのである。

また、宗家一門は後鳥羽上皇等の鎌倉幕府打倒のため加担し挙兵したものの鎮圧された。これが承久の乱(1221)で宗家の家綱、家朝は鎌倉で討たれ没落したのである。この後大桑三郎利光の子孫も大桑郷における勢力が次第に衰退し始めるのである。

林一族の没落により、次に台頭するのが加賀武士団の代表格で同門の富樫一族である。

大桑氏の撤退により、日吉大社から分社した二体の祭神をこの地に合祀し現在に至っていると考えられる。今、大桑日吉神社の三体の祭神はこのためであろう。

 

鎌倉期以降の大桑荘

鎌倉期に入ると、従来どおりの日吉社領として実質、暦仁元年(1238)には天台宗座主領に文保年間(1317~1319)には、奈良興福寺大乗院の浄土寺門跡領にと続くのである。室町期になると応永17年(1410)~天文14年(1536)までは、京都相国寺慈寿院の甘露寺家領として受け継がれる。後期には一向一揆衆の石黒源左衛門組が在地管理を行い、さらに加賀藩時代へと続くのである。

 


 

大桑の産業等

 

   犀川の扇状地の開拓は、水の確保の反面洪水との戦いでもあり、丘陵地の開墾も容易でなかったであろう。大桑村の農業に関する資料を歴史書から見ると次のようになっている。古くから年貢米として、また租税として苦難の道のりをへて明治維新を迎えた。ことに、犀川の「ころ」作業までもが天和2年(1682)には、年間15貫前後の銀の取立てが行われた。「ころ」作業とは、犀川上流から薪、木材を流しこの地で陸揚げし、これを金沢城下へ運搬する作業のことである。屎尿取運搬船も所持していたが、これにも銀3匁が課税されていた。

(1)米の取れ高等の推移

石高 山林 原野 宅地 税率 年貢 家数
正保3年(1646) 550石 25町

8反余

11町

2反

寛文10年(1670) 803石 6割2分 497.8

石余

40
元禄5年(1692) 585石余
天保5年(1834) 730石余
江戸末期 718石 4割7分 337.4

石余

明治11年(1878) 958石余 66町

8反余

35町

1反余

56町

8反余

23町

3反余

4町

6反余

3割9分 373.9

石余

66

合計186町6反余

(2)大桑村の概況

明治維新後、最初の国勢調査とも言われる「皇国地誌」よると、明治9年の大桑村の概況としては次のとおりである。

ア.産物

米619.5石、モチ米127.9石、大麦58石、小麦23石、粟5石、大豆42石、そば18石、小豆7.5石、菜種58石、桑葉250貫、繭60斤、麻150斤、大根7500本、茄子170個、こうぞ皮100斤、真竹980本、小枝1500貫(藩政期まで、これらの物産がすべて課税の対象であった)

イ.堤

上川原堤、新堤、上葭島堤、村前堤、裏川原堤、不動下堤

ウ.年貢等

米373石9斗5升4合、金2円23銭7厘

地租1,366円40銭6厘

エ.戸数

本籍66戸(士族3、平民63)、家数61軒

人数男176人(士族5人、平民171人)、女200人(士族4人、平民196人)

オ.職業

 農業専従 55戸 水車業  1戸
 農業兼漁業  3戸  医業  2戸
 農業兼古道具商  1戸  日稼 5戸

カ.その他

牡馬6頭、屎尿取運搬船

 

 


 

おんまとは?

 

なぜ”おんま”と言うのか

大桑の名前は、桑の巨木の存在を由来としている。その名前が最初に著われるのは「和名類聚抄」で平安初期には、すでに大桑の名前があったことは前述のとおりである。古くから大桑と記し「おんま」と呼ぶことが多い、特に近隣ではそれで通用するのである。また町内では、それが普通である。では、なぜ「おんま」と言うのか調べることにした。

郷土の歴史書には、1件のみ「おんま」と記載されているが解説はなく単に、大桑の別名とだけとしている。(角川日本地名大辞典)その他のものには、大桑と記し「おほくわ」や「おほぐわ」とふりがなを付してあるものの、これは旧字体のふりがなでこれらが発音上「おんま」へと変化したことには、無理がある。

一方、地質学上大桑層を「おんまそう」と公式に命名しているのが唯一である。これについて学術資料を調べると、命名の由来として、古来土地の人たちが「おんま」と呼んでいたので「おんまそう」としたとしている。これが、昭和5年に望月勝海氏が学会へ発表したのが最初である。

以上のことから、「おんま」の由来は判明せず、町内の方々や近隣の人たちに話しを聞き調べたところ次のような言い伝えがあったので紹介しておこう。


 

[ 藩政時代、殿様や上級武士が大桑上野山へ狩猟に行く時や野田山に墓参する場合、当時寺町台地の道路が未整備のため、大桑村の西の丘陵にある坂道を迂回して通った。この坂を小坂(おざか)と言い、やはり険しい坂であったため坂の下に馬を止めたことから、その地を「御馬 おんま」と呼ぶようになったと伝えられている。また、馬を一時的に放し飼した場所を「うまはなし」と言い、これが後に略されて「うまなし」の地籍として最近まで使用されていた。

小坂は、現在の大桑保育所取付道路と市営駐車場の間に野田町への、昔の通路としてその一部が残っている。 ]

 


 

桑の古木について

現在、桑の巨木日本一は群馬県沼田市にある「薄根の大桑」と言われている。樹齢1500年、幹周5.3m、直径1.7m、樹高が13.7mの山桑である。桑の特徴は、枝が伸びるに従い地面に接した部分から旺盛に根を下ろし、枝が張る樹勢の強い樹木である。低木は養蚕に適しているものの現在では衰退し桑の木自体を見ることができなくなった。

大桑日吉神社に保存されていた、桑の根も境内の一坪の社に近年まで保存されていた。しかし、長年の風雨により往時の大きさから、現在は抱えられるほどの大きさになり、今は大切に本殿に安置されている。

現存する桑の根

この桑の根について「郷土歴史書」と「大桑地名誌」を参考に記してみたい。ただし、測定値に関することについては原文のとおりものを記す、これは江戸時代以前は「度量衡」の値が変遷しているためである。おおよそは群馬県沼田市の「薄根の大桑」を想像していただきたい。

 

どこにあったのか

「大桑地名誌」によると、大昔、加賀国の犀川西側の山ふところあたりの貝殻渕に高さ数十丈の桑の老木があった。幹枝が茂り百畝に亙っていたとしている。

また、古代中国前漢時代の小説「神異経」の桑の木の事例を引用している。

貝殻渕の場所は、文久元年(1861)に作成された「犀川々筋図」によると犀川右岸の鱒川渕と穴渕とのほぼ中間地点で対岸側である。これを地形図上で計算すると、現在の集落から南側で上川原への農道の出戸付近に相当する。往古はもちろん堤防もなく、一面が荒地と河原と境のなかった場所と思われ、しかも、その場所は現在の河川敷あたりと考えられる。

犀川川筋図

前述したように、平安時代この地に行幸した花山法皇の目的は、この桑の大木であったのかも知れない。

 

木の大きさ

桑の木の大きさについては、前文のように高さが数十丈で幹枝が茂り百畝に亙っていたとされる、一方三里に亙るとも伝えている。その真偽のほどは不明である。木の大きさを記載するための記録や資料に乏しいのである。

明治の始めに犀川から、根の一部を掘り出し、後に日吉神社に奉納されたものを、一坪の社に近年まで納められていたのを見ている人たちとっては、その大きさが思い出せると思う。なお、大正6年(1917)の「石川縣物産陳列館縦覧記念」誌として、今の博覧会のパンフレットであるが、これに写真と解説が掲載されているのが唯一であろう。

現在日本一の、群馬県沼田市の「薄根の大桑」以上だったのかもしれない。

 

(次へ) 桑の木は伐採された?

 

 

 


 

桑は伐採された?

桑の木のため、日も届かず農作が豊かでなかったため斧で切り倒して燃やしたとしている。しかし古来からこのような大木は、神木として崇められていたはずである。この時代における国内の例をみても、天皇の祈願や行幸の対象になっており、これを簡単に伐採したとは考えにくい。近江国栗太郡の栗の木を伐採の際は、天皇に上奏している。また、養蚕を業とする人たちにとっては桑の木は古くから養蚕の神様としても崇められている。さらに新田開発や不作が続いたとしても簡単に伐採の理由としては考えにくい。これのことから考えられるのは、度重なる洪水により倒木したか、それに近い状態となり伐採の必要にせまられたのではないか。

伐採作業についても、農民達だけでなく別の指導者の指示により、当時としてはかなり大掛かりな農具以外の道具を使用しないことには難しい作業であろう。

伐採時に、倒れた枝先が「方位12方」で言う、末と辰巳の方角を指した村を末村と辰巳村と名づけた。今まで言われていた枝先が届いたためではないのである。

伐採した時代を考えると、桑の木のあった貝殻渕は現在の集落地に近く、集落がこの地に移住する以前とするのは妥当であろう。それは、集落がそれ以前からあれば、日陰で生活は成り立たないのである。したがって、伐採はこの地に集落を移住する南北朝前期以前であろう。

 

伐採のその後

伐採後の発掘等、桑の根の経緯について以下に記す。

安政年間(1854~1859)に貝殻渕の堤防を工事した時に、一度大木の根を掘り当てた。その木性は神代杉のようであったが実際には、桑の木の根であった。これが桑の根が最初に発見された記録である。それは余りにも巨大で掘り出しが不可能であった。さらに、明治4年(1871)の大洪水により再度根が現れた。

この話を聞いた旧加賀藩主慶寧公の命令で掘り出そうとしたが、失敗に終わった。翌年旧加賀藩士の中山守成がこれを掘り取った。その時の根の大きさは、15m×5mで巨大なものであった。

中山守成は、この一部を下本多町の邸宅に保管し、後に済光堂を興し、医術を究めるための守り神として祭った。この時の残りを石川県勧業博物館に寄付し学術の参考とした。石川県勧業博物館は、現在の成巽閣と石川県立伝統産業工芸館の地である。

明治42年(1909)、大正天皇が皇太子時代に北陸を行啓されたおりに、石川県はこの桑の根で硯箱を作り献上した。この桑の木は、古代から天皇家と縁がある。さらに、大正5年(1916)には由緒ある根の残りを保存するために、一軒社を新築し一般に初めて公開された。この場所は兼六園内にあった当事の石川県立図書館の庭であった。この時の写真が前述した桑の根に関する唯一の記録写真である。

 

当時の桑の根(大正6年)

 

里帰りした神木

昭和2年(1927)には、元の場所である大桑村へ下賜された。実に55年ぶりの里帰りであった。

昭和11年(1936)には、金沢市に編入した記念に大桑日吉神社境内に社を新築し神木として奉納し祭ったのである。

 

 

(前へ) 桑の古木について


 

あとがき

従来から、大桑の成り立ちは平安時代と聞いていたが、伝説と思われるものを含めると優に500年以上遡り大和時代までのものとなった。

そこで今回は、明治初期までとし「大桑の生い立ち」及び「桑の古木について」等に分けて取りまとめた。しかし全てが判明した訳ではなく一部であり、今後の参考になれば幸いである。

これらの中で、今まで知らなかった次のようなことが分かった。

①21代天皇雄略帝時代(在位456~479)まで遡ったこと。
②神社は、泰澄大師(682~767)が開山したこと。
③大桑三郎利光が日吉大社から分社した、二祭神を合祀し三体となったこと。
④古来、大桑の集落は、犀川の対岸にあったこと。
⑤桑の木があった場所が、ほぼ特定できたこと。
⑥大正6年の桑の根の写真を発見できたこと。

雄略帝時代からの歴史があり、先人達はどこから来たのか郷土歴史書には記載はない。しかし、確認は出来なかったものの次のような伝承がある。

「?京の都あるいは奈良、大和から落武者達が戦いに追われ、日本海沿いまたは白山々系山脈の渓流沿いを辿り逃げ延びて住み着いた?」としている。

また、郷土歴史書の中で類似して登場する、他県の「大桑」と言う地名として長野県木曽郡大桑村や愛知県東加茂郡下山村大桑村及び岐阜県山県郡大桑村等がある。さらに、過去に存在したが今はない富山県婦負郡八尾町乗嶺村の大桑郷、愛知県江南市の大桑郷、及び同北設楽郡設楽町大桑村等があった。

私達の先祖は、これらの地の人達と関わりがあるのだろうか、また地名の所以として大きな桑の木があったのか興味のあるところだ。


平成19年に植樹した桑の後継木

 


 

大桑地名誌

昭和11年、大桑日吉神社に建立された石碑「大桑地名誌」の原文とその釈文を記す。

注: 度量衡は、一部時代により変遷している

原文および釈文

解説

往古加賀國犀川西岸山之麓邊貝殻淵在老大桑高数十丈「五朝小説魏晋異經一在桑高八十丈其葉長一丈廣六七尺有蠶其上自作繭云々」幹枝繁蔓互百畝云 

大昔、加賀国の犀川西側の山ふところ辺りの貝殻淵に高さ30数mの桑の老木あった。幹や枝が繁り3000坪に亙ったという。

古代中国の「神異経」という小説に高さ240m以上、葉の長さが3m以上で幅が2m位の桑の木に蚕が自生し繭を作るという話がある。これは中国特有の誇張した表現であろう。

貝殻淵 貝殻橋下流約100mで村落から上川原への出戸付近で、現在の川床辺りと思われる。文久元年(1861)の古絵図による

五朝小説 中国の魏、晋、唐、宋、明の五大王朝時代の小説集

神異経 東方朔(前154~前93)の著書で古代神話伝説集である。後に張華(232~300)が整理したものとされる

「雄略帝時代」名此地大桑邑東接医王西隣布市邑

雄略天皇時代には、この村は大桑村と言い東は医王山に接し西隣は野々市村であった。

雄略帝 21代天皇で在位は456~479

布市邑 現在の野々市

泰澄大師建一宇作守護神現今大桑神社祭神云是也「祭神大山祇神」

泰澄大師がこの地に一軒創建した社が、現在の大桑日吉神社で祭神は大山祇神である。

泰澄大師 682~767、717白山修験道を開く

大山祇神 おおやまつみのかみ、山の神

花山帝 砌給行宮此処因御所ケ谷通布市邑御坂参詣坂之名始

花山天皇が行幸の際、仮の御所から野々市へ参詣のために通った坂が御所ケ谷でこれが、坂の名の始まりである。

花山帝 65代天皇で在位は984~986(生没968~1008)

行宮 あんぐう、行幸時の仮御所

此後居城富樫氏一子三郎利光此邑有

この後、富樫氏一族の三郎利光が大桑郷に在地領主としてとして、城を設け入郷した。

三郎利光 林光家の二男1170頃23才で入郷し、大桑三郎利光を名のり没年不明。入郷時、大津市坂本の日吉大社を分社して祀る。林家没落後大桑日吉神社に合祀し、現在の祭神三体は、このためと考えられる

大巳貴神 おおなむちのかみ別名大国主神

大山咋神 おおやまくいのかみ

大桑郷 古くは、加賀国加賀郡八郷の一つで、現在の大桑町、寺町台地から野町や中村町まで及んでいた

多寺坊出善福寺徳善寺光誓寺等大桑郷「前田家三代頃出尾山城下」

大桑郷の寺のうち、善福寺、徳善寺、光誓寺が前田家三代利常の時代に金沢城下へ移転した

善福寺 大桑で建立1445、城下へ1601

光誓寺 大桑で建立1445、城下へ1601

徳善寺 大桑で建立1559、城下へ1685

明治四年際犀川大洪水露桑根一部水中翌五年藩士中山守成堀取之

明治四年の犀川大洪水の際、水中から桑の根が現れた。翌五年藩士の中山守成がこれを掘り取った

桑の根 安政年代にも掘り出した記録はあるが詳細は不明
後移石川縣勸業博物館保管同館矣明治三十五年一月 日吉社 石川縣物産陳列館ノ掛額冩

その後、石川県勧業博物館に移し明治三十五年一月、日吉社に石川県物産陳列館の写真を掲示した

博物館 現在の兼六園で石川伝統工芸館と成巽閣に明治9年に完成

日吉社 昭和7年5月12日に県社日吉社を村社日吉神社と改称

加賀河北郡「舊加賀郡ト云」大桑郷アリ其ノ本豪ノ地ヲ大桑ト名付ケタリ

南北朝時代、河北郡が誕生したが、それまで加賀一帯を加賀郡と称していた。この時期の郡境は犀川であった。その集落地域を大桑村と名づけた。

大桑村 河北郡で犀川以北に位置し、旧加賀郡であった
後年民家ヲ郡境犀川ノ南ニ移シ現今石川郡崎浦村ニ属ス

後に、集落を犀川の南に移転し現在は石川郡崎浦村に属している。移転時期や移転元は定かでない。

大桑村 石川郡で犀川以南に位置

崎浦村 明治22年4月1日誕生

金澤市ヲ距ル一里餘川上古邑ニ桑ノ老木有リ幹枝繁蔓方三里ニ互ル大桑ノ地名實此ニ原ケリ

金沢を隔てること四キロ余り、犀川古村に桑の老木があった。幹や枝が繁り十二キロに亙っていた。これが実に地名の興りである。しかし三里十二キロとは少々誇張ではないか。

大桑村 音読みで於保久波と史料「和名類聚抄」にみる(935に編纂)
後之ヲ伐り倒シ耕地ヲ作り其ノ梢ノ届ル處ヲ梢ノ邑ヲ約シ末ノ邑ト云

後に、桑の老木を切り倒し耕地を作った。切り倒した時に枝先が届いた所を末村と名付けた。

その時期は不明でであるが、この後に集落を現在地付近に移転したと考えられる。

 
因顧フニ上古老木アルガ為ニ陽氣届(不)ズ農作豊(不)ラズ乃チ火ヲ烈シテ焚キ斧ヲ用テ倒セリト此ノ老木ヲ郡郷ノ名トシタル

顧みると大昔、桑の木のため日も届かず農作が豊かでなかったため、斧で切り倒して燃やした。

この老木を郡郷の名とした。

 
例少カラズ近江栗アリ圍廻シテ其アル處ヲ栗太郡ト稱ヒ 

大桑のような例は、少なくない滋賀県近江では栗の木で周囲を囲った所を栗太郡と言っている。

全国の例
筑後ニ檪アリ長九百間国人之ヲ御木トイヒ其在ル處ヲ三木郡今三毛郡ト云

福岡県筑後では、長さ1,620mのクヌギがあり、これを御木としそこを三木郡と言い、今は三毛郡と言う。別の史料では900尺(約300m)と記載がある。

全国の例
長門阿武郡ニ椿ノ老木アリ其處ヲ椿ノ郷トイヒ

山口県阿武郡に、椿の老木のある所を椿の郷と言う。

全国の例
美濃国石津郡ニ櫻ノ老木アリ其處ヲ櫻樹ノ郷稱シタリ

岐阜県石津郡に、桜の老木のある所を桜の郷と言う。

全国の例
斯如例モアレバ大桑ノ地名ノ由来ハ決シテ架空ノ説ニ非ス

以上のような例もあり、大桑の地名の由来も決して架空のものではない。史料には老木等銘木のある所には天皇の行幸や祈願がしばしば行われていた。

 
「大桑根ノ由来   大桑郷ノ桑根今ヲ距ル八十許前犀川氾濫シテ洗ヒ大桑ノ邑ノ東貝殻淵ノ水中ニ露レタリ長サハ八間幅三間許アリ藩候命ヲ堀シメタレドモ埋テ果サズ

「大桑の桑根の由来東貝殻渕の水中から現れた。その大きさは約15m×5mで前田候の命令で掘り出そうとしたが、それは果たさなかった。

桑根の由来 大正5年2月の石川県物産陳列館の説明文

東貝殻渕 貝殻渕の東方

明治五年舊藩士中山守成之ヲ堀シメ其ノ幾分ヲ得テ置ケリ

明治五年旧藩士の中山守也がこれを掘り出して邸宅に置いていた。

 
後下本多町ニ濟光堂ヲ起シ醫術ヲ究ムルニ本木ヲ以テ醫祖神ノ像ヲ刻セシメ後遺ヲ石川縣勸業博物館ニ寄付シ館ハ學術参考トシテ保管シタリシニ

その後、中山守成は下本多町二済光堂を興し医術を研究するため、その根で像を彫り医祖神とした。その残りをを石川県勧業博物館に寄付し学術の参考として保管している。

 
館廢セラルルニ及ヒ本館ノ保存ニ命セリ此桑根即チ是ナリ

石川県勧業博物館の廃止により石川県物産陳列館へ移した桑の根はこれである。

陳列館 博物館と同じ場所で改称
四十二年 今上天皇陛下東宮ニ在マシ北陸ニ行啓シ給フニ當リ石川縣ハ彫刻硯筥ヲモ獻上セリ藩士松川豐男カ曩ニ守成ヨリ割與セラレタル桑根ヲ以テ謹製シタル者ニ係レリ會々

明治42年、大正天皇が皇太子時代に北陸に行啓されたおり、石川県は彫刻した硯箱を献上した。藩士の松川豊男が先に中山守成から、割与された桑の根で謹製したものである。

 
本館出品共勵會ハ如此由緒アル神木ノ遺ヲ保存センガ為ニ特ニ一宇ヲ新構シテ寄贈セリ因ニ筝ヲ叙シテ公衆ニ?ク   大正五年二月  石川縣物産陳列館

石川県物産陳列館共励会は、このように由緒ある神木の残りを保存するため、特に一軒新築して寄贈した。因みにこれを記念して一般に公開した。 大正5年2月石川県物産陳列館」

 
追誌昭和二年四月石川縣物産陳列館廢館ニ際シ大桑ノ神木ヲ下附セラレタルヲ以テ現今日吉神社ノ保管トシ昭和十一年四月金沢市編入ノ際神木保存會ヲ設ク 昭和十一年四月大桑町日吉神社  奉納 高島権次郎

追誌 昭和2年4月の石川県物産陳列館の廃館により、大桑の桑の根の神木を下賜されたのが、現在の大桑日吉神社保存のものである。昭和11年4月金沢市に編入の際神木保存会を設けた。 昭和11年4月 大桑町日吉神社

追誌 本石碑への追加文

編入 昭和11年4月1日金沢市に編入

高島権次郎 大正9年8月~同11年4月崎浦村村長

 

 


 

大桑の年表


 

日吉神社改築記録

昭和25年9月3日(1950)に、襲来したジェーン台風による境内の倒木により、幣殿の一部が損壊したことや本殿等の老朽化していたのを契機に、改築した記録である。

著者 吉田吉嗣氏の回想

「?数年来、神社の改築を同憂の志とともに語り合いつつありし処、茲に機熟し百参名の氏子が献身的なる結合と百九名の縁故者の熱ある御協力により、満弐ヶ年に亙る改築工事を無事終了したことは申すまでもなく、御神徳の賜であることを痛感し関係者一同とともに誠に喜びに堪えない次第であります。つたない文、乱れたペンあるが行事の概況を記したのですが、後日の参考になれば幸ひであります。?」

・子全体協議会????8回

・役員協議会?????45回

・総経費????2,143,795円

・氏子労力奉仕延???517人

 

改築記録の抜粋

昭和27年(1952)
10月7日 改築奉賛会を設立し世話人を選任する個人21人と各団体役員等
10月12日~ 近郷の神社を視察を視察する 14神社
10月16日 大工は、北方與衛氏とする
10月17日 寄付金額を明日までに町会長宅の投票函に入れる(本村)
11月4日 桧材は、高山市小森製材と契約する 73万円
12月1日 地鎮祭を挙行
12月2日 役員の互選により会長を選任する
12月17日 副会長二名と会計を一名を選任する
   〃 小森製材から桧材が金沢駅に届く

 

昭和28年(1953)
1月5日 第一回目の全体作業で栗石運びと地均し作業を行う
1月20日 法師山の松を6本伐採する
1月21日 同上松を運搬する
1月22日 同上松を運搬する
1月25日 田中勇作方に大工作業場を設ける
1月28日 縁故者への寄付依頼書を発送する
2月3日 境内の杉2本伐採する(周り6尺位)
2月5日 伐採した松と杉を製材のため刑務所へ運搬する
2月19日 松田権六氏から建築設計に厚意ある事項ついて、協議する
2月28日 境内の地均しを行う
3月5日 松田権六氏の事項は、文部省文化技官の森誠三氏案でく採用の上、計画の変更を申し出た
3月18日 松田権六氏の紹介で、尾崎神社の北村源兵衛技官が旧宮殿の現地調査を実施した
・現在のものは、江戸中期のもので170年位経過している(天明年間)
・拝殿も同時期であるが製作者あまり良い方ではない
・宮殿は、一間社流造りで真の宮殿の形と違うが、補修してこのまま保存した方がよい
・既に買付けた改築材は、一部を除き上等である
・工事費としては、人夫賃が節約されるので一割程度安くなる
[旧殿の一部を物語る「木鼻 きばな」二体が現在の宮殿に保管 されておりこのまま保存すべき財産であろう]

現存する木鼻

3月23日 松田権六氏と東京で意見交換する。(二名上京)
4月11日 氏子全体協議会で当初予定どおりで工事を行うことを決定する
4月24日 御神体の仮遷座を挙行する。(社務所、奥の間)また、旧本殿の取り壊しを行う
4月28日 氏子全員で石ガチをし、記念に「くさまき4本」植樹する。倶楽部も大工作業場とした♪♪大桑の石がちうた

○力出せ力出せヨーイヤナー 若い時ゃやらなきゃかかあたらん

○上げろ上げろヨーイヤナー 上げておろせば土しまる

○やれつけそらつけヨーイヤナー 天井まで持っちゃげてヨーイヤナー

○重い松(しょう)さんヨーイヤナー 地ひびきするほどに ヨーイヤナー

○建前(たちまえ)いつぞやヨーイヤナー 地所もってひくぞえヨーイヤナー

○ドンとつけドンとつけヨーイヤナー さあさ声をかけてヨーイヤナー

○ごうざれごうざれヨーイヤナー 今夜は月夜じゃヨーイヤナー

○エッサエッサ底つきへそつきヨーイヤナー へそで気がいきゃかかぁいらぬヨーイヤナー

○そうりゃそうりゃヨーイヤナー あの子がみとるぜヨーイヤナー

○館(やかた)にうれしやヨーイヤナー 鶴と亀とが舞い遊ぶヨーイヤナー

当時の石ガチ風景

5月1日 大工の仕事初めとなる(北方親子、荒間甚吉の三名)
7月5日 立柱式を挙行する
7月9日 棟札決定する
7月16日 上棟式を挙行する
8月3日 幣殿の建前行う
8月10日 法師山の松三本と旧大桑小学校裏の杉二本を追加伐採する
8月20日 宮殿のみ、新本殿へ移し御神体はそのまま社務所の床に安置する
8月24日 昨夜来の大雨で、堤防が数ヶ所で決壊し仮橋も流失する
9月20日 生産組合から春日灯篭の寄付があった
9月21日 開拓組合は、幣殿の幕一張、納税協力会と婦人会で幣殿と宮殿の幕二張、用水組合は、御神酒と銚子一対それぞれ寄付をする。また、青年団は鏡台二台を寄付する
9月25日 台風13号で仮橋が流失し、堤防も数ヶ所決壊する
9月29日 桑の根の堂を高台へ移転完了する(基礎は6尺×6尺、大桑地名誌の石碑も)
9月30日 仮橋に桟橋を架ける
   〃 新殿祭を挙行する(23時30分~)
10月1日 遷座式を挙行する(0時~)
   〃 慶賀祭を行う

   〃 青年団による演芸会は(漫才、浪曲、演劇)神社前広場で開催し盛況だった
10月2日 氏子の祝宴、会場は神社前広場で行う。夜は奉納踊りが行われた

 

昭和29年(1954)
4月4日 善福寺で当町の沿革を聞く。お寺の縁起によれば1188年前の52代嵯峨天皇御宇、弘仁11年(820)行澄法師(?)云々とあり誠に古いことが判った。(救世観音寺創建の伝承のことか。) 疑問
4月30日 水屋が完成する
10月1日 秋祭で改築の決算報告を行う。寄付総額は2,090,355円
  その他 昭和26年4月、旗棒格納庫が完成した
昭和41年8月、鳥居を建立した

 

疑問

善福寺の沿革の文中の事項は、「善福寺系譜」(昭和43年8月25日発行大桑彰辰 書)」記載のことと思われる。(昭和29年4月4日の項)

 

善福寺系譜の全文

そも善福寺発祥は ?越の中ツぞ北の国? 八乙女山下高瀬なる? 里に建ちたる坊なりき

歴史は古りし千百年? 嵯峨天皇の御治世に? 救世観音寺創建の? 聖地と云う大桑山

開基行澄僧都にて? 小野篁が持仏なる? 十一面の観世音? 安置したりと伝え聞く

*高瀬一の宮国幣神社、現高瀬神社

*人皇第52代、養老年間

*天台宗ノ碩学 ??四宗兼学の塾頭、平安期ノ貴族 学者・詩人トシテ伶名アリ

・疑問(1)

嵯峨天皇の養老年間とあるが、天皇の生没は786~842で在位時期も809~823である。養老年間は717~723であり時代が符合 しない。

・疑問(2)

開基「行澄」とあるが「行澄」は関連歴史資料に一切登場していない。唯一記載あるのは、「加能郷土辞彙」に登場するが、白山本宮の長吏で生没は ?~1359であるが時代も符合しない。

それは、「行澄」でなく天台宗の開祖である「最澄」(伝教大師)766~822ではないかと考える。

小野篁?? 生没801~852  平安初期の貴族で天台宗の碩学者であり、詩人でもある。

 

参考

改築工期内にみる諸物価

金沢~東京往復汽車賃??2,020円

セメント1袋?? 435円

ベニア1枚?? 250円

市内電車賃往復?? 20円

炭1俵 ??370円

映画館入場料?? 100円

焼酎1升 ??340円

日本酒1升 ??485円

銭湯入浴料 ??15円

大工手間賃 ??530円

白米10キロ ??680円

 


 

日吉神社由緒

神社に奉納されている「大桑地名誌」には、神社の歴史として30字程度しか記載されていない。そこで、今回の調査で判明したことを追加してまとめる。

 

日吉神社由緒

この神社は、奈良時代に白山修験道を開いた泰澄大師(682~766)が創建されたと伝えられています。神様は、いざなぎの神といざなみの神の神子で「大山祇神(おおやまつみのかみ)」です。

その後、平安時代の嘉応三年(1170)林 光家の二男利光が、滋賀県大津市坂本の日吉大社の西本宮から「大巳貴神(おおなむちのかみ)」、東本宮から「大山咋神(おおやまくいのかみ)」を迎え、大桑三郎利光を名のりこの地に祀りました。

鎌倉時代の嘉禄三年(1227)には、本社殿を造営し新田を奉献した記録が残っています。

江戸時代の天明年間(1781~1788)に本社殿を改築し、さらに昭和二十八年十月一日(1953)にも同じく改築しました。

明治初年に村社に列せられ、同三十九年十二月二十九日神餞帛供進神社に指定されました。昭和七年五月十二日に現在の日吉神社に改称され、三体の御神体を祀り惣社として仰がれています。

*いざなぎの神[伊邪那岐神(伊弉諾尊)]

*いざなみの神[伊邪那美神(伊弉冉尊)]

*大巳貴神は、別名を大国主神

*神饌帛(米、稲、酒、蔬菜、しお、水、絹、錦、などの供物)

*惣社(二体以上のご神体を祀る神社)

 

 

 

御祭神

主祭神 正三位 大山祇神

武門や山林・農産の守護神で、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、開運、延命長寿、厄除などにご利益があるとされています。

*この他、大漁、福徳、海陸交通安全、国土安泰、縁結び、夫婦和合、子育てのご利益や美人の守護神でもある

 

主祭神(相座) 正一位 大巳貴神 (別名、大国主神)

土地の開拓・統治や農業・漁業の守護神で、五穀豊穣、厄除、開運、家内安全、病気平癒などにご利益があるとされています。

*五穀(米、麦、粟、きび、豆)

主祭神(相座) 従四位上 大山咋神

屋敷の守護神で五穀豊穣、家内安全、縁結び、酒業繁盛などにご利益があるとされています。

*この他、国内平定、国土経営・修理、農業保護、医薬、温泉海陸交通安全、学業成就、商売繁盛、縁結び、商運、夫婦和合、安産、子育て、歌舞、音曲などのご利益もある。

大桑日吉神社

 

 


 

参考文献

・石碑 大桑地名誌

・ふるさと古城(大桑塁)

・さきうら

・崎浦郷土史

・館報 崎浦

・大桑土地改良区図面

・おんま文化志彙

・大桑郷(村)の変遷

・大桑ジョウデン遺跡

・金沢市大桑町アナグチ遺跡

・大桑層(中川耕二)

・金澤市神社大観

・加賀志徴

・加賀郷土辞彙

・皇国地誌

・亀の尾記

・和名類聚抄(諸国郡郷考)

・能登賀三州志

・加越能寺社由来

・加越能三ヶ国物成帳

・金沢市遺跡資料各種

・金澤古蹟史

・石川県神社誌

・石川県石川郡史

・石川県河北郡史

・野々市町史

・石川歴史館

・日本荘園大辞典

・日本荘園資料

・日本古代神祇辞典

・神々の系図

・神社

・日本大百科全書

・日本の神様を知る事典

・加賀武士団の創統 林一族

・姓氏家紋大辞典

・漢語林 中国学芸年表

・皇室百科辞典

・国史大辞典

・石川県物産陳列館縦覧記念

・金沢古蹟史

・温故収録

・白山眺望登山

・広辞苑

・日本の神社を知る事典

・家紋大図鑑

・北陸地質学会研究報告No,5

・中国学芸大辞典

・中国歴史文化辞典

・中国佛教史

・巨木・巨樹

・歴史手帳2004

・日本の歴史 年表地図

・金沢市の郊外における伝承地名

・兼六公園鳥畧図(明治31年2月)

・日本の神々の事典

 

近世の度量衡

本資料に記載している主な数値について、近世における度量衡換算値を示す。

1丈=10尺≒3.3m

1畝=30坪=1アール≒100㎡

1里≒3900m

1間≒1.8m

1石=10斗≒180?

1斤≒600g

 

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