日吉神社改築記録
昭和25年9月3日(1950)に、襲来したジェーン台風による境内の倒木により、幣殿の一部が損壊したことや本殿等の老朽化していたのを契機に、改築した記録である。
著者 吉田吉嗣氏の回想
「 数年来、神社の改築を同憂の志とともに語り合いつつありし処、茲に機熟し百参名の氏子が献身的なる結合と百九名の縁故者の熱ある御協力により、満弐ヶ年に亙る改築工事を無事終了したことは申すまでもなく、御神徳の賜であることを痛感し関係者一同とともに誠に喜びに堪えない次第であります。つたない文、乱れたペンあるが行事の概況を記したのですが、後日の参考になれば幸ひであります。 」
・子全体協議会 8回
・役員協議会 45回
・総経費 2,143,795円
・氏子労力奉仕延 517人
改築記録の抜粋
昭和27年(1952) | |
10月7日 | 改築奉賛会を設立し世話人を選任する個人21人と各団体役員等 |
10月12日~ | 近郷の神社を視察を視察する 14神社 |
10月16日 | 大工は、北方與衛氏とする |
10月17日 | 寄付金額を明日までに町会長宅の投票函に入れる(本村) |
11月4日 | 桧材は、高山市小森製材と契約する 73万円 |
12月1日 | 地鎮祭を挙行 |
12月2日 | 役員の互選により会長を選任する |
12月17日 | 副会長二名と会計を一名を選任する |
〃 | 小森製材から桧材が金沢駅に届く |
昭和28年(1953) | |
1月5日 | 第一回目の全体作業で栗石運びと地均し作業を行う |
1月20日 | 法師山の松を6本伐採する |
1月21日 | 同上松を運搬する |
1月22日 | 同上松を運搬する |
1月25日 | 田中勇作方に大工作業場を設ける |
1月28日 | 縁故者への寄付依頼書を発送する |
2月3日 | 境内の杉2本伐採する(周り6尺位) |
2月5日 | 伐採した松と杉を製材のため刑務所へ運搬する |
2月19日 | 松田権六氏から建築設計に厚意ある事項ついて、協議する |
2月28日 | 境内の地均しを行う |
3月5日 | 松田権六氏の事項は、文部省文化技官の森誠三氏案でく採用の上、計画の変更を申し出た |
3月18日 | 松田権六氏の紹介で、尾崎神社の北村源兵衛技官が旧宮殿の現地調査を実施した |
・現在のものは、江戸中期のもので170年位経過している(天明年間) | |
・拝殿も同時期であるが製作者あまり良い方ではない | |
・宮殿は、一間社流造りで真の宮殿の形と違うが、補修してこのまま保存した方がよい | |
・既に買付けた改築材は、一部を除き上等である | |
・工事費としては、人夫賃が節約されるので一割程度安くなる | |
[旧殿の一部を物語る「木鼻 きばな」二体が現在の宮殿に保管 されておりこのまま保存すべき財産であろう] | |
3月23日 | 松田権六氏と東京で意見交換する。(二名上京) |
4月11日 | 氏子全体協議会で当初予定どおりで工事を行うことを決定する |
4月24日 | 御神体の仮遷座を挙行する。(社務所、奥の間)また、旧本殿の取り壊しを行う |
4月28日 | 氏子全員で石ガチをし、記念に「くさまき4本」植樹する。倶楽部も大工作業場とした♪♪大桑の石がちうた
○力出せ力出せヨーイヤナー 若い時ゃやらなきゃかかあたらん ○上げろ上げろヨーイヤナー 上げておろせば土しまる ○やれつけそらつけヨーイヤナー 天井まで持っちゃげてヨーイヤナー ○重い松(しょう)さんヨーイヤナー 地ひびきするほどに ヨーイヤナー ○建前(たちまえ)いつぞやヨーイヤナー 地所もってひくぞえヨーイヤナー ○ドンとつけドンとつけヨーイヤナー さあさ声をかけてヨーイヤナー ○ごうざれごうざれヨーイヤナー 今夜は月夜じゃヨーイヤナー ○エッサエッサ底つきへそつきヨーイヤナー へそで気がいきゃかかぁいらぬヨーイヤナー ○そうりゃそうりゃヨーイヤナー あの子がみとるぜヨーイヤナー ○館(やかた)にうれしやヨーイヤナー 鶴と亀とが舞い遊ぶヨーイヤナー |
5月1日 | 大工の仕事初めとなる(北方親子、荒間甚吉の三名) |
7月5日 | 立柱式を挙行する |
7月9日 | 棟札決定する |
7月16日 | 上棟式を挙行する |
8月3日 | 幣殿の建前行う |
8月10日 | 法師山の松三本と旧大桑小学校裏の杉二本を追加伐採する |
8月20日 | 宮殿のみ、新本殿へ移し御神体はそのまま社務所の床に安置する |
8月24日 | 昨夜来の大雨で、堤防が数ヶ所で決壊し仮橋も流失する |
9月20日 | 生産組合から春日灯篭の寄付があった |
9月21日 | 開拓組合は、幣殿の幕一張、納税協力会と婦人会で幣殿と宮殿の幕二張、用水組合は、御神酒と銚子一対それぞれ寄付をする。また、青年団は鏡台二台を寄付する |
9月25日 | 台風13号で仮橋が流失し、堤防も数ヶ所決壊する |
9月29日 | 桑の根の堂を高台へ移転完了する(基礎は6尺×6尺、大桑地名誌の石碑も) |
9月30日 | 仮橋に桟橋を架ける |
〃 | 新殿祭を挙行する(23時30分~) |
10月1日 | 遷座式を挙行する(0時~) |
〃 | 慶賀祭を行う |
〃 | 青年団による演芸会は(漫才、浪曲、演劇)神社前広場で開催し盛況だった |
10月2日 | 氏子の祝宴、会場は神社前広場で行う。夜は奉納踊りが行われた |
昭和29年(1954) | |
4月4日 | 善福寺で当町の沿革を聞く。お寺の縁起によれば1188年前の52代嵯峨天皇御宇、弘仁11年(820)行澄法師(?)云々とあり誠に古いことが判った。(救世観音寺創建の伝承のことか。) 疑問 |
4月30日 | 水屋が完成する |
10月1日 | 秋祭で改築の決算報告を行う。寄付総額は2,090,355円 |
その他 | 昭和26年4月、旗棒格納庫が完成した |
昭和41年8月、鳥居を建立した |
疑問
善福寺の沿革の文中の事項は、「善福寺系譜」(昭和43年8月25日発行大桑彰辰 書)」記載のことと思われる。(昭和29年4月4日の項)
善福寺系譜の全文
そも善福寺発祥は 越の中ツぞ北の国 八乙女山下高瀬なる 里に建ちたる坊なりき
歴史は古りし千百年 嵯峨天皇の御治世に 救世観音寺創建の 聖地と云う大桑山
開基行澄僧都にて 小野篁が持仏なる 十一面の観世音 安置したりと伝え聞く
*高瀬一の宮国幣神社、現高瀬神社
*人皇第52代、養老年間
*天台宗ノ碩学 四宗兼学の塾頭、平安期ノ貴族 学者・詩人トシテ伶名アリ
・疑問(1)
嵯峨天皇の養老年間とあるが、天皇の生没は786~842で在位時期も809~823である。養老年間は717~723であり時代が符合 しない。
・疑問(2)
開基「行澄」とあるが「行澄」は関連歴史資料に一切登場していない。唯一記載あるのは、「加能郷土辞彙」に登場するが、白山本宮の長吏で生没は ?~1359であるが時代も符合しない。
それは、「行澄」でなく天台宗の開祖である「最澄」(伝教大師)766~822ではないかと考える。
小野篁 生没801~852 平安初期の貴族で天台宗の碩学者であり、詩人でもある。
参考
改築工期内にみる諸物価
金沢~東京往復汽車賃 2,020円
セメント1袋 435円
ベニア1枚 250円
市内電車賃往復 20円
炭1俵 370円
映画館入場料 100円
焼酎1升 340円
日本酒1升 485円
銭湯入浴料 15円
大工手間賃 530円
白米10キロ 680円