大桑地名誌

昭和11年、大桑日吉神社に建立された石碑「大桑地名誌」の原文とその釈文を記す。

注: 度量衡は、一部時代により変遷している

原文および釈文

解説

往古加賀國犀川西岸山之麓邊貝殻淵在老大桑高数十丈「五朝小説魏晋異經一在桑高八十丈其葉長一丈廣六七尺有蠶其上自作繭云々」幹枝繁蔓互百畝云          

大昔、加賀国の犀川西側の山ふところ辺りの貝殻淵に高さ30数mの桑の老木あった。幹や枝が繁り3000坪に亙ったという。

古代中国の「神異経」という小説に高さ240m以上、葉の長さが3m以上で幅が2m位の桑の木に蚕が自生し繭を作るという話がある。これは中国特有の誇張した表現であろう。

貝殻淵 貝殻橋下流約100mで村落から上川原への出戸付近で、現在の川床辺りと思われる。文久元年(1861)の古絵図による

五朝小説 中国の魏、晋、唐、宋、明の五大王朝時代の小説集

神異経 東方朔(前154~前93)の著書で古代神話伝説集である。後に張華(232~300)が整理したものとされる

「雄略帝時代」名此地大桑邑東接医王西隣布市邑

雄略天皇時代には、この村は大桑村と言い東は医王山に接し西隣は野々市村であった。

雄略帝 21代天皇で在位は456~479

布市邑 現在の野々市

泰澄大師建一宇作守護神現今大桑神社祭神云是也「祭神大山祇神」

泰澄大師がこの地に一軒創建した社が、現在の大桑日吉神社で祭神は大山祇神である。

泰澄大師 682~767、717白山修験道を開く

大山祇神 おおやまつみのかみ、山の神

花山帝 砌給行宮此処因御所ケ谷通布市邑御坂参詣坂之名始   

花山天皇が行幸の際、仮の御所から野々市へ参詣のために通った坂が御所ケ谷でこれが、坂の名の始まりである。

花山帝 65代天皇で在位は984~986(生没968~1008)

行宮 あんぐう、行幸時の仮御所

此後居城富樫氏一子三郎利光此邑有

この後、富樫氏一族の三郎利光が大桑郷に在地領主としてとして、城を設け入郷した。

三郎利光 林光家の二男1170頃23才で入郷し、大桑三郎利光を名のり没年不明。入郷時、大津市坂本の日吉大社を分社して祀る。林家没落後大桑日吉神社に合祀し、現在の祭神三体は、このためと考えられる       

大巳貴神 おおなむちのかみ別名大国主神

大山咋神 おおやまくいのかみ

大桑郷 古くは、加賀国加賀郡八郷の一つで、現在の大桑町、寺町台地から野町や中村町まで及んでいた             

多寺坊出善福寺徳善寺光誓寺等大桑郷「前田家三代頃出尾山城下」

大桑郷の寺のうち、善福寺、徳善寺、光誓寺が前田家三代利常の時代に金沢城下へ移転した

善福寺 大桑で建立1445、城下へ1601

光誓寺 大桑で建立1445、城下へ1601

徳善寺 大桑で建立1559、城下へ1685

明治四年際犀川大洪水露桑根一部水中翌五年藩士中山守成堀取之

明治四年の犀川大洪水の際、水中から桑の根が現れた。翌五年藩士の中山守成がこれを掘り取った

桑の根 安政年代にも掘り出した記録はあるが詳細は不明

後移石川縣勸業博物館保管同館矣明治三十五年一月 日吉社 石川縣物産陳列館ノ掛額冩

その後、石川県勧業博物館に移し明治三十五年一月、日吉社に石川県物産陳列館の写真を掲示した

博物館 現在の兼六園で石川伝統工芸館と成巽閣に明治9年に完成

日吉社 昭和7年5月12日に県社日吉社を村社日吉神社と改称

加賀河北郡「舊加賀郡ト云」大桑郷アリ其ノ本豪ノ地ヲ大桑ト名付ケタリ

南北朝時代、河北郡が誕生したが、それまで加賀一帯を加賀郡と称していた。この時期の郡境は犀川であった。その集落地域を大桑村と名づけた。

大桑村 河北郡で犀川以北に位置し、旧加賀郡であった

後年民家ヲ郡境犀川ノ南ニ移シ現今石川郡崎浦村ニ属ス

後に、集落を犀川の南に移転し現在は石川郡崎浦村に属している。移転時期や移転元は定かでない。

大桑村 石川郡で犀川以南に位置

崎浦村 明治22年4月1日誕生

金澤市ヲ距ル一里餘川上古邑ニ桑ノ老木有リ幹枝繁蔓方三里ニ互ル大桑ノ地名實此ニ原ケリ

金沢を隔てること四キロ余り、犀川古村に桑の老木があった。幹や枝が繁り十二キロに亙っていた。これが実に地名の興りである。しかし三里十二キロとは少々誇張ではないか。

大桑村 音読みで於保久波と史料「和名類聚抄」にみる(935に編纂)

後之ヲ伐り倒シ耕地ヲ作り其ノ梢ノ届ル處ヲ梢ノ邑ヲ約シ末ノ邑ト云

後に、桑の老木を切り倒し耕地を作った。切り倒した時に枝先が届いた所を末村と名付けた。

その時期は不明でであるが、この後に集落を現在地付近に移転したと考えられる。

 

因顧フニ上古老木アルガ為ニ陽氣届(不)ズ農作豊(不)ラズ乃チ火ヲ烈シテ焚キ斧ヲ用テ倒セリト此ノ老木ヲ郡郷ノ名トシタル

顧みると大昔、桑の木のため日も届かず農作が豊かでなかったため、斧で切り倒して燃やした。

この老木を郡郷の名とした。

 

例少カラズ近江栗アリ圍廻シテ其アル處ヲ栗太郡ト稱ヒ          

大桑のような例は、少なくない滋賀県近江では栗の木で周囲を囲った所を栗太郡と言っている。

全国の例

筑後ニ檪アリ長九百間国人之ヲ御木トイヒ其在ル處ヲ三木郡今三毛郡ト云

福岡県筑後では、長さ1,620mのクヌギがあり、これを御木としそこを三木郡と言い、今は三毛郡と言う。別の史料では900尺(約300m)と記載がある。

全国の例

長門阿武郡ニ椿ノ老木アリ其處ヲ椿ノ郷トイヒ

山口県阿武郡に、椿の老木のある所を椿の郷と言う。

全国の例

美濃国石津郡ニ櫻ノ老木アリ其處ヲ櫻樹ノ郷稱シタリ

岐阜県石津郡に、桜の老木のある所を桜の郷と言う。

全国の例

斯如例モアレバ大桑ノ地名ノ由来ハ決シテ架空ノ説ニ非ス

以上のような例もあり、大桑の地名の由来も決して架空のものではない。史料には老木等銘木のある所には天皇の行幸や祈願がしばしば行われていた。

 

「大桑根ノ由来   大桑郷ノ桑根今ヲ距ル八十許前犀川氾濫シテ洗ヒ大桑ノ邑ノ東貝殻淵ノ水中ニ露レタリ長サハ八間幅三間許アリ藩候命ヲ堀シメタレドモ埋テ果サズ

「大桑の桑根の由来東貝殻渕の水中から現れた。その大きさは約15m×5mで前田候の命令で掘り出そうとしたが、それは果たさなかった。

桑根の由来 大正5年2月の石川県物産陳列館の説明文

東貝殻渕 貝殻渕の東方

明治五年舊藩士中山守成之ヲ堀シメ其ノ幾分ヲ得テ置ケリ

明治五年旧藩士の中山守也がこれを掘り出して邸宅に置いていた。

 

後下本多町ニ濟光堂ヲ起シ醫術ヲ究ムルニ本木ヲ以テ醫祖神ノ像ヲ刻セシメ後遺ヲ石川縣勸業博物館ニ寄付シ館ハ學術参考トシテ保管シタリシニ

その後、中山守成は下本多町二済光堂を興し医術を研究するため、その根で像を彫り医祖神とした。その残りをを石川県勧業博物館に寄付し学術の参考として保管している。

 

館廢セラルルニ及ヒ本館ノ保存ニ命セリ此桑根即チ是ナリ

石川県勧業博物館の廃止により石川県物産陳列館へ移した桑の根はこれである。

陳列館 博物館と同じ場所で改称

四十二年 今上天皇陛下東宮ニ在マシ北陸ニ行啓シ給フニ當リ石川縣ハ彫刻硯筥ヲモ獻上セリ藩士松川豐男カ曩ニ守成ヨリ割與セラレタル桑根ヲ以テ謹製シタル者ニ係レリ會々

明治42年、大正天皇が皇太子時代に北陸に行啓されたおり、石川県は彫刻した硯箱を献上した。藩士の松川豊男が先に中山守成から、割与された桑の根で謹製したものである。

 

本館出品共勵會ハ如此由緒アル神木ノ遺ヲ保存センガ為ニ特ニ一宇ヲ新構シテ寄贈セリ因ニ筝ヲ叙シテ公衆ニ諗ク   大正五年二月  石川縣物産陳列館

石川県物産陳列館共励会は、このように由緒ある神木の残りを保存するため、特に一軒新築して寄贈した。因みにこれを記念して一般に公開した。 大正5年2月石川県物産陳列館」

 

追誌昭和二年四月石川縣物産陳列館廢館ニ際シ大桑ノ神木ヲ下附セラレタルヲ以テ現今日吉神社ノ保管トシ昭和十一年四月金沢市編入ノ際神木保存會ヲ設ク 昭和十一年四月大桑町日吉神社  奉納 高島権次郎

追誌 昭和2年4月の石川県物産陳列館の廃館により、大桑の桑の根の神木を下賜されたのが、現在の大桑日吉神社保存のものである。昭和11年4月金沢市に編入の際神木保存会を設けた。 昭和11年4月 大桑町日吉神社

追誌 本石碑への追加文

編入 昭和11年4月1日金沢市に編入

高島権次郎 大正9年8月~同11年4月崎浦村村長 

 

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